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~秀頼公に会いに行ってきました~

 

令和元年1023日(水)

谷山にある、秀頼公の墓に行ってきました。(伝承)

その後、南九州市頴娃町にある、真田幸村の墓に行きました。

どちらも伝承というレベルではありますが、私はそうであったと思っています。

 

大阪城には多数の抜け穴が在ったといわれています。

落城のさい、秀頼の母である淀君がわが子の命、豊臣の血筋を助けるために、行動をしたと思います。

 

私の考えでは、影武者が家康本陣に向かい、幸村本人は秀頼公と供に抜け穴から大阪港に向かい薩摩へ落ち延びたと思っています。

 

薩摩へ行けば島津は自分を頼って来たものは必ず、助ける。そして強い。

九州が戦国の時、何回か助け求めてきたものの為に、10倍もの軍勢と戦い、これに勝利しています。

関ヶ原の敗走の後、薩摩藩の存続も危ないにも関わらず西軍の宇喜多秀家公をかくまい、徳川幕府と粘り強く話し合い、話を三者納得できる形で納めています。

 

私は大阪の戦いの原因と言われている、豊臣家が京都の方広寺に奉納した釣り鐘に書いてある、国家安康の文字「国安は家康を2つに切ることでなる」という謀反の願いがある。

といういちゃもんから始まったともいわれています。

 

幸村公はわずかな上げ足も取られないよう、ひっそりと暮らし秀頼公を守ったと思っています。真の英雄のお墓は彼の晩年のように山の中にひっそりとたっています。しかし訪れる人が多いので幸村公も寂しくはないでしょう。

                       

下記写真は、谷山にある豊臣秀頼公のお墓 

案内板が見えたら、細い路地に入る。

しばらくすると民家の入り口近くにたどり着きます。そこに秀頼公のお墓がありました。

秀頼公のお墓からの真田幸村公のお墓参り。

鹿児島県南九州市頴娃町へ「鹿児島歴史探検隊」は向かいます。

自転車レースでお世話になった「アグリランドえい」をとおり、お茶どころ頴娃へ。

六文銭が目印の駐車場へ到着。ここからがスタートです。

入口に杖があり、この杖のお陰で無事目的地に行きつくことが出来ました。

「ゆきまるくん」が方言で我々を応援しお墓まで案内してくれます。

結構、険しい山道です。雨が降ったあと苔で滑らないように注意しながら登りました。

秀頼公を見守りながら、幸村公は頴娃の山の中でひっそり暮らしていたのでしょう。

登り口に「雪丸GUIDE」のリーフレットも置いてありました。

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