知覧の特攻隊基地周辺に行ってきました。
1945年に太平洋戦争が終わって74年が経ちましたが、
知覧では今でもその頃の面影を残しています。
今回は飛行場跡地周辺の戦争遺跡を訪ねてきました。
知覧特攻平和会館の駐車場に到着したのが10時前でしたが、少し肌寒い感じでした。
走り始めると体も温まってきます。
平和会館の周辺にいろいろなものがあるのでそちらから回ることとしました。
まずは当時の資料などから復元製作された一式戦闘機の隼(復元)です。
2007年に公開された映画で使用されたもので、知覧の特攻基地からは120機が飛び立ったと記されていました。
下についている灰色のものは飛んでいるときに翼がたわむのを防ぐためのものだと思われますが、
中身は燃料であったと思いたいです。
その後特攻平和観音堂に行きました。
この場所に陸軍最後の特攻基地があったようです。
左側には三角兵舎があり、中が見れるようになっていました。
野球場を隔てて向かい側には油脂庫と弾薬庫が残っていました。
このあたりは本部地区の北側にあたり、周囲には燃料置き場などもあったようです。
表面はコンクリートで覆われていますが、中はレンガ造りになっています。
どちらも所々に窪みが見られるのですが、これは空襲を受けたときのものがそのまま残っています。
そこから南へ進むと給水塔と防火水槽がありました。
防火水槽は移築されたようですが、もともとは3基あったそうです。
直径は10mほどでお椀型になっており、階段がついていました。
水が少なくなっても素早く火が消せるよう汲めるように工夫されていたのかもしれません。
給水塔は少し傾いていました。
上が重いとバランスが取りづらいのは自転車と似ている気がしますね。
山田さんのゴッドハンドで少し傾きが直ったような気もするので、しばらくは大丈夫でしょう。
思川から取水した水を貯めて飲料水や飛行機の整備などに使われていたようです。
知覧は古くからホタルが見られる町でした。
ホタルの一生は短いですが、そのホタルの光を特攻する前に我が身と重ねた思い、
戦争が終わってこれからも平和が続いてほしいと願う思い、
そういう思いから思川の名前がつけられたのかもしれませんね。
その後特攻機発進の地を経て、戦闘指揮所跡、通信隊跡に向かいました。
なお、知覧はお茶が有名ですが、昔からさつまいもや焼酎も作られています。
特攻前に隊員が最後に交わした盃も焼酎だったのか気になるところではありますが、
何も考えず楽しく飲める平和な日々がこれからもずっと続いてほしいと願うばかりです。
戦闘指揮所跡から1kmほど南に行くと、三角兵舎跡があります。
空から見つからないようにするためでしょうか?
特攻平和観音堂横と同じく杉林の中にひっそりと跡が残っていました。
そこから途中まで戻り、西の掩体壕に向かいます。
平地から少し登ったところにコの字型の土塁がありました。
この土塁が掩体壕で、爆弾が近くに落ちたときの爆風や破片から飛行機を守るための場所になっていました。
飛行場は空襲の標的とされていたことから、当時は飛行機を雑木の枝などで覆い、
空から飛行機のある場所がわからないようにしていたようです。
飛行機の整備は昼夜問わず行われ、掩体壕の後方には人員が空襲の際に退避するための掩壕跡もありました。
(現在掩壕の穴は塞がれています)
南薩縦貫道から頴娃川辺線を通り、開聞岳を見ながら畑の中を走ります。
お茶街道ゆとり館で昼食をとりました。
茶畑に囲まれていることもあって、様々なお茶が飲めるようになっていたのが印象的でした。
写真では控えめに見えるかもしれないけど、おかわりして消費したカロリー分は摂取しましたよ!
(約1名ほど摂取カロリーのほうが大幅にオーバーしていたことは見なかったことにしてください。)
話が逸れそうになりましたがちゃんとここに来たのにも理由があって、
ゆとり館のあたりは「まのひ」(青戸飛行場)跡なんです。
知覧の飛行場は、
「ち」らん「のひ」こうじょう
ということで「ちのひ」と呼ばれていたそうです。
ではなぜ青戸飛行場が「まのひ」なのでしょうか?
「あ」おと「のひ」こうじょう
なら「あのひ」になるはず?
実は枕崎に飛行場を建設する予定だったので、
「ま」くらざき「のひ」こうじょう→まのひ
と呼ばれるようになったようです。
食後にトーチカに向かいました。
トーチカはコンクリート造りで畑の中にそのまま残っています。
銃弾などから身を守りつつ応戦する場所だったのですが、
当時は鉄が貴重であったことから鉄筋ではなく竹を使った竹筋になっています。
説明文には、東へ行くと雑木林があってその中に完全な形のトーチカが残っているそうです。
ということで行ってみると・・・?
なんということでしょう~!
雑木林は太陽光発電施設に変わっているではありませんか。
飛行場から太陽光発電施設になるなんて70年前には思いもよらなかったことでしょう。
更に70年経ったらこのトーチカの背後はどうなっているのでしょうか?
想像もつきませんが、海だけは今の青いままであってほしいなぁと思います。
探検隊は、まのひ跡の北西側にある掩体壕に向かいます。
こちらの掩体壕も杉の木に囲まれていました。
ちのひ跡の掩体壕とは異なり、こちらの土塁は途中で切れておりそこから入れるようになっていました。
もしかしたら掩壕に避難することを重視されていたのかもしれませんね。
まのひ跡からちのひ跡に戻るとき、下り坂の途中に豊玉姫が座ったとされる腰掛石がありました。
石は3つほどありまして、旅の途中にどれかに座ったものと思われます。
一旦知覧特攻平和会館に戻り、最後に富屋食堂前を通って帰りました。
のれんはかかっていますが中は資料館になっており、ごはんは食べられないそうです。
今回は以上になります。
総走行距離30キロほど、走行時間は2時間弱でした。
歩いて回るにはちょっと遠く、かといって車では近い感じがして自転車での移動がちょうどいい感じがしました。
立冬も過ぎて暦の上では冬ということもあり、走っている間は少し肌寒く感じました。
これから自転車で移動する際は脱着しやすいウインドブレーカーがあると便利そうです。
ではでは。
レポート:T隊員
令和元年11月20日(水)